理解者

私が精神科のカウンセリングを受けたのは人生で2回目だった。


1度目は高校生の頃。母親に連れられ、されるがまま。これが何に繋がって私の何を解決してくれるのか何一つ理解出来ず、自分の本当の事を話さず(話していいと思わなかった)挙句の果てには、金がないと。母親から言われ、何も解決されぬまま終了した。

今思えば、この時から全部崩れてしまっていたのかもしれない。

この時、しっかり向き合ってくれる大人がいたら私は違ったのかもしれないと思う。


それで、また今年の春頃から境界性人格障害という名目で、月に1回カウンセリングが始まった。

それが今月、卒業という形になったのだ。というより、卒業させられたと私は思ってしまった。


心理カウンセラー、向こうも仕事なのだから仕方ないよな、そうだ仕事なんだからって思わないといてもたってもいられなかった。


私は順調だと、確かにそうだったかもしれない、でも私の他の部分を解決して貰いたかった。

最後だから聞きたいことがあればどうぞと、そう言われた。

私は自分の親のこと、自分のこと、他者の視線の恐怖など色々相談したつもりだった。

カウンセラーは言った、「まあ今回は境界性人格障害でそれはいい方向にいってるのでひとまず卒業でいいと思いますよ」と。


そうか、そうだよな、全部救ってもらおうなんておこがまし過ぎる。向こうも仕事で、きっと沢山待ってる患者がいるんだ。

1つの病名をアップし、それを順番にクリアにしていく作業。そういうもんなんだ。


心理カウンセラーに私は憧れを抱いていた。そして私自身も心理学や哲学は大好きで、そういう立場になれたらいいなとふんわり思っていた。自分と同じ想いをしてる人を助けたい。


心理士の境遇は少し私に似ていて、彼は私と似ている部分があると話してくれた。そして、自分と同じ思いをしている人を助けたいから心理士になったんだと。


なるほど、私と同じだな。やっぱり人間は自分と同じ思いをしている人たちを救いたいと思っているんだな。私はここで心理カウンセラーに憧れをもつ事を辞めた。


私は彼に、何一つ理解して貰えなかった。何が救いたいだ。他人を救うなんて、傲慢でしかない。


他人の全部を理解し、解決したいと思うその気持ちこそが間違っていたと、彼と自分の関係を通して気づいた。人が人を救いたいなんてのは、自分のエゴでしかなく、相手が本当の意味で救われるなんて事は有り得ない。


彼と私は似ていたので、期待が高まっていたせいかもしれない。尚且つ、心理カウンセラーという立場にたっている彼に救いの手を差し伸べていたのだから。


私の放つ言葉を否定されたり、蔑ろにされた時に酷く絶望し、この人はただの他人でしかなかったと思った。期待しすぎた自分が悪い。


卒業できますよ、おめでとうと言われ、嬉しかったのだが、早く卒業させようというような、見捨てられた様な気分になり、私のボーダーは何一つ治っていなかった。


でももういいと思った。人に話を聞いてもらい、確かに救われた。誰にも話せなかったことを初めて話せた。だけど、もういい。全部は無理なのだ。私の抱える問題は一つ一つが色濃く、全部のポイントを解決していかないと総合的に見て何一つ変わらない。それを分かって欲しかったのに。


元々人との壁が厚いので、期待していようがそれが怒りに変わることはない。彼が他人だということは理解していたから。


私は、自分を少し理解してくれたり、受け入れてくれる相手に、希望を抱きその全部を相手に託そうとする節があるなと今回分かった。

そういう優しい相手に期待しすぎてしまう、これも分かって欲しい、貴方ならこれも分かるでしょ?って。でも他人の気持ちの全部を1から100まで分かるわけがなく、自分の気持ちをそもそも他人に伝え理解しろということ自体間違っていた。


気持ちを伝えることは自由でも、それをどう解釈してどう私に返してくるかは受け手の自由だし、それで絶望してしまう自分はなんというか、子どもだなと思った。


今回のカウンセリングで、救われなかったと思いつつも学べた部分は大きく、人は大した凄くないこと。他人を救いたいという気持ちも、他人に救われようとする事も全部エゴだってこと。


だけど母親に話して、救われるかもとまだ思う自分がいる。